HOME株本れびゅ2007年会社がなぜ消滅したか―山一証券役員たちの背信
会社がなぜ消滅したか―山一証券役員たちの背信
読売新聞社会部
4101348324

感想:損ぎりできず一発退場

1997年に破綻した山一證券。その自主廃業までの、道のりを描いたドキュメント。

私は昔は世間のニュースなどはよく見ない人でして、山一證券破綻の理由なんて全く知りませんでした。社長の涙の会見とかも見たことなかったし。とりあえず勉強になりました。

こんな経緯

(自分の頭の整理のためにまとめ)

1980年代半ば。証券会社は空前の好景気に沸いていた。そのころ売り上げを伸ばすために特に重視されたのは、法人からの「営業特金」だった。営業特金は、証券会社の営業マンが顧客から資金を預かり一任勘定で運用するものだが、営業特金の契約を取る競争が激化してくると、ニギリと呼ばれる、利回りを保証する行為も行われるようになった。

山一は当時、4大証券の4番目だったが、売り上げを伸ばすために無理をした(当時の社長:横田良男)。契約を取るために他社よりも有利な利回りを保証し、また法人向けの営業特金に特に力を入れた。営業特金は、短期的に多くの手数料収入をもたらした。利回りを保証するため、運用が失敗した分は「損失補てん」する必要があるが、株価が右肩上がりで上がっていけば、問題はなかった。ニギリ(利回り保証)は違法だったが、現実問題どこも行っていた行為だった。なお、当時は損失補てんや一任勘定取引は違法ではなかった。

山一では1兆8千億円の営業特金を集め、1990年の決算では2千336億円の過去最高の経常利益を記録した。しかし、バブルははじけ、特金は1千300億円の含み損に変わった。さらに、大口優遇の損失補てんが社会問題となり、大蔵省は1990年に特金の禁止を通達した。

山一證券は追い詰められた。そんな含み損を全部自分でかぶったら山一は4大証券の座からは転落し、下手をするとつぶれてしまう。大蔵省に従い顧客に泣いてもらうか、違法でも顧客との約束を守るか?板ばさみにあった、山一がとった方策は「うるさい企業には補填をするが、なるべく問題を先送りして相場の回復を待つ」というものだった(当時の社長:行平次雄)。

このとき問題の先送りのために使われたトリックが飛ばしであった。決算期が近づいた企業の特金の含み損を表面化させないため、一時的に別の会社に売却し、決算期が過ぎたら買い戻すのである。さらに、企業がニギリ分の利息を保証して、他の会社にひきとってもらうニギリ飛ばしということも行われた。ニギリ飛ばしは、株価がもどって含み損がなくならないかぎり、永遠に飛ばしつづけなければいけなくなり、山一證券内部では宇宙遊泳と呼んでいた。

1991年、損失補てんの問題が国会でも取り上げられ、顧客企業は次々に特金の引き上げを要求してきた。ニギリ飛ばしの利息も馬鹿にならず、飛ばし先も限られてきた。山一は海外にペーパーカンパニーを作り、そこに損失を移し、帳簿上は損失を隠した。ここまでの飛ばしも違法行為だが、損失隠しに至って完全な粉飾決算となった。

1994年、帳簿外の損失を抜きにしても、山一は危機に陥っていた。2期連続赤字、他の3大証券に大きく水をあけられた。その一方で大量採用を続け、オフィスの不動産も拡大した。大蔵省から経営改善報告書の提出を求められた。内部からは潔く、海外債務を一括して処理して一から出なおそう、という意見もあったが、結局、帳簿外の債務はかくしたままの、上っ面の改善報告書が提出された(当時の社長:三木淳夫)。

1997年、自転車操業は限界に達し、とうとう損失が表面化した。直前に、社長を引き継いだ野澤正平はマスコミへの会見の最後で、マイクを持って立ち上がり、涙を流しながら「社員は悪くありませんから!」と言った。その姿は、TVなどで繰り返し流された。

損きり

相場師に例えるなら、レバかけて相場をはって、逆に動いて損切りできず、信用金利もかさみ、追証払えず一発退場みたいなものでしょうか。

負の遺産のバトンを受け継いだ代々社長たちは、もっと長い間隠蔽を続けられていたら、自分が生きているうちはつつがなくすごせる、あるいは相場に神風がふけば問題はイッキに解決する。そう思っていたかもしれないが、結局そうはならなかったようです。

ガバナンスの欠如、ディスクロージャーの欠如、言ってしまえばそういうことだが、一大証券事件がどうして起きてしまったのか、人間を中心に生々しく描いた姿が面白かった。

自主廃業発表後の事後処理などでの支店の様子も生々しい。顧客が次々に証券を引き出していくが、玄関先ではその客を狙って他の証券会社がわんさかあつまってる。苦労して集めた自分の客が取られるのをただ見るだけしかない営業マンたち。。。支店の自販機が早々に撤収されたのを聞いて、伊藤園がお茶を送ったとか言うちょっといい話みたいなのも。

自己廃業間近、山一の株価がうんじゅう円まで売り込まれたとき、「四大証券を国がつぶすわけがない」と果敢にリスクをとって買い向かった個人投資家も多かったという話も。うーむ。

2007/4/26

関連ページ(外部)

Wikipedia 山一證券

これらのファンドは営業で運用まで行っていたが、シロウト運用である上に、利回り保証運用益を出す目的ではなく数多く売買を重ねて手数料を稼ぐことを第一義的な目的として運用したために、株価上昇局面においても多額の損失を出すファンドも多かった。

横田の最大の失策は、この状況下で、1985年9月に営業の軸足を法人へ移し、一任勘定・営業特金(「永田ファンド」)の獲得を最優先する決定を下したことにある。「法人の資金は無尽蔵だ。あらゆる手段を講じて集めよ」と大号令を発したのである。時あたかもプラザ合意が成立し、日本がバブル景気に入ろうとする時代であった。数多くの永田ファンドは、表面上手数料収入をもたらして会社の業績に大いに貢献したが、同時に多額の含み損を抱えていった。
行平自身がこれらの「不作為の判断」をした理由には、下記のようなものがあったと考えられる。